2009年9月28日月曜日

あいだ。

2つを分かつものの間に、
一本の線線を隔てて、
異なるものの、対峙

きっと、そうではなく

異なる色の円
重なりをもって、
真ん中の部分は、
違う色。
青と黄色が重なって、
緑の重複域
緩衝地帯

いやいや、きっとそうでもなく

流れるものならば、
汽水域
あるいは、癒着するような
接着面
あいだにあるものは、
どちらのものでもあり、
どちらのものでもなく

手を伸ばす
わたしの表面が、
あなたに もぎとられるように思えて、
とっさにつかもうとしてしまったそれは、
あなたの傷口で、
そして、悲鳴を聞く

痛みは きっと
その距離のための
通過儀礼

2009年9月27日日曜日

incarnation

観念の操作に興味はない。実現させ、受肉化されることが重要なんだ。

相互理解について。

込み入って、そして、時の積み重ねを経た「状況」。
個別化され、それだけを写し取るように、受け取ったところでそれがつくりだす個人の心情をそのまま理解できはしない。そもそも条件が違う、と言われたときに、反論のしようもない。

状況ではなく、心情そのもの。全身のアンテナをセットする。
そして、感じる。

理解、はできないかも知れない、結局。
でも、感じている何かはある。
それを、伝えられる、受肉化できる言葉が欲しい。
届けられる、信じてもらえる、モノが欲しい。

汝の敵を愛せよ

佐藤優 「獄中記」 
岩波現代文庫版から
マタイによる福音書5/43-44 について  p367-368

「神学プロパーの勉強をした人たち以外に、『汝の敵を愛せ』という言葉ほど誤解されてきたイエスの言葉はない。まず、誰でも愛せということではなく、味方と敵をきちんと分けて、敵を愛せということである。  
 政治とは、味方と敵を分けるところから始まる。その意味では、北方領土交渉を行うときはロシア人は敵であるし、現在の闘争では、国策捜査である以上、検察はもとより裁判所も敵である。  
 『敵を愛する』ということは、白旗を掲げ敵に屈服する、あるいは敵におもねるということではない。  
 憎しみの論理は人の目を曇らせる。敵を憎んでいると、闘いの構造が見えなくなり、従って対応を誤るのである。こちら側が弱いときほど、正しい対応をするために、要するに自分のために敵を愛することは必要なのである。僕の国策捜査に対する認識は、そのような神学的確信に基づいている。」

佐藤はこの箇所に続いて、「このような理解は、神学的には、それほど稀な解釈ではない」として、ユルゲン・モルトマンの『イエス・キリストの道、メシア的次元におけるキリスト論』(212p)を引用する。
以下、その引用そのままを抜粋する。

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敵を愛することは、報復するのではなく、創造する愛である。善をもって悪に報いる者は、もはや反撥ではなく、何か新しいものをこしらえるのである。敵を愛することは、敵意から本来的に解放されることから生ずる、あの尊厳性を前提とする。敵を愛することは、決して敵に屈服することではない。まして敵意を敵に与えることによって、敵意を増幅することを意味しない。もしそうなったら、敵を愛する主体は、もはやそこにないことになる。むしろ問題は、敵意の知性的な克服にほかならない。敵を愛する時、人はもはや『私は、どのようにして敵から身を守り、敵の攻撃をおどしてやめさせることができるか」とは問わない。むしろ、『私は、どのようにしたら敵から敵性を取り去ることができるか』と問う。敵を愛することによって、私たちは、敵を私たち自身の責任の中に引きこみ、そこにまで私たちの責任範囲を広げるのである。それゆえ、敵を愛することは、『心情倫理』とは全く別なものである。それこそ、真の意味の『責任倫理』にほかならない。
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2009年9月13日日曜日

夢で逢いましょう

ひょうたんから駒がでることもある。
メールで話していたら、昼間、まどろんだときに、ほんとに来てくれた。