2009年9月27日日曜日

汝の敵を愛せよ

佐藤優 「獄中記」 
岩波現代文庫版から
マタイによる福音書5/43-44 について  p367-368

「神学プロパーの勉強をした人たち以外に、『汝の敵を愛せ』という言葉ほど誤解されてきたイエスの言葉はない。まず、誰でも愛せということではなく、味方と敵をきちんと分けて、敵を愛せということである。  
 政治とは、味方と敵を分けるところから始まる。その意味では、北方領土交渉を行うときはロシア人は敵であるし、現在の闘争では、国策捜査である以上、検察はもとより裁判所も敵である。  
 『敵を愛する』ということは、白旗を掲げ敵に屈服する、あるいは敵におもねるということではない。  
 憎しみの論理は人の目を曇らせる。敵を憎んでいると、闘いの構造が見えなくなり、従って対応を誤るのである。こちら側が弱いときほど、正しい対応をするために、要するに自分のために敵を愛することは必要なのである。僕の国策捜査に対する認識は、そのような神学的確信に基づいている。」

佐藤はこの箇所に続いて、「このような理解は、神学的には、それほど稀な解釈ではない」として、ユルゲン・モルトマンの『イエス・キリストの道、メシア的次元におけるキリスト論』(212p)を引用する。
以下、その引用そのままを抜粋する。

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敵を愛することは、報復するのではなく、創造する愛である。善をもって悪に報いる者は、もはや反撥ではなく、何か新しいものをこしらえるのである。敵を愛することは、敵意から本来的に解放されることから生ずる、あの尊厳性を前提とする。敵を愛することは、決して敵に屈服することではない。まして敵意を敵に与えることによって、敵意を増幅することを意味しない。もしそうなったら、敵を愛する主体は、もはやそこにないことになる。むしろ問題は、敵意の知性的な克服にほかならない。敵を愛する時、人はもはや『私は、どのようにして敵から身を守り、敵の攻撃をおどしてやめさせることができるか」とは問わない。むしろ、『私は、どのようにしたら敵から敵性を取り去ることができるか』と問う。敵を愛することによって、私たちは、敵を私たち自身の責任の中に引きこみ、そこにまで私たちの責任範囲を広げるのである。それゆえ、敵を愛することは、『心情倫理』とは全く別なものである。それこそ、真の意味の『責任倫理』にほかならない。
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