凪ぎの日々
激しい波は水面の下でたまっていく
見えているだろうか
顔を出したとき、防波堤は、
と取り越し苦労も栓なきことか
2009年12月7日月曜日
2009年11月25日水曜日
2009年11月23日月曜日
2009年11月9日月曜日
連鎖・輪廻・永劫回帰
繰り返しているようでやっぱりそうではない
疲れたか?
YESだし、Noでもある。
もうたくさんか?
全く。そんなことはない
変わったか?
変わり続けている。
これからも?
たぶん、そうなのだと思う。
一種の成長なのだと思う。
予測は?
不能
楽しいか?
間違いなく。
大変?
それは確かに。
好き?
ものすごく。
あるいは、
壊れそうなほど。
なぜ?
理由はいらない。
急にツァラトゥストラを思い出した。
これが生というものか、ならば、もう一度
だったっけ。
上りらせんのスパイラル。
でも、細かいスパイラルはもういいから、
もっと、高く飛べるような気がする。
疲れたか?
YESだし、Noでもある。
もうたくさんか?
全く。そんなことはない
変わったか?
変わり続けている。
これからも?
たぶん、そうなのだと思う。
一種の成長なのだと思う。
予測は?
不能
楽しいか?
間違いなく。
大変?
それは確かに。
好き?
ものすごく。
あるいは、
壊れそうなほど。
なぜ?
理由はいらない。
急にツァラトゥストラを思い出した。
これが生というものか、ならば、もう一度
だったっけ。
上りらせんのスパイラル。
でも、細かいスパイラルはもういいから、
もっと、高く飛べるような気がする。
2009年10月27日火曜日
ハリガネムシ
ばらばら、ばらばらとこぼれていく。
外面は平静を装ってもくずれていく。
応急措置をほどこしたそばから。
あいた穴をそとから見えないように埋めるために
内側から内臓を千切って詰める。
いつか、外壁が崩れ落ちた時に、
もはや何も内側に残っていないことを知って、
誰かが驚くだろうか。
それとも、そんなことなんて、誰も見ていないかも知れない。
帰巣本能なのか。
危険になると、最初に戻りたくなる。
最初。一番最初に身につけた仮面。
真面目で真剣で、紳士で、まっすぐで、単純。
急に戻りたくなって演じたんじゃないの?
よくわからない。
あの後、結婚までは、それこそ、向こうにいたときまでも、
それで通せたじゃないか。
自分までだませたのかも知れない。
一緒になってからしばらくも自分をそのまま保てたじゃないか。
だからきっと、あれが本当なんじゃないのか。
そうだったらいいと、どっかで思ってないか。
なぜ、あっさりと、それで引き下がらなかった?
でも、きっと違うって、底で知ってないか。
知っている。ここが終着点じゃないと知っている。
もう昔の手で自分がだませないことも知っている。
ハリガネムシ。
カマキリに寄生して、狂ったように行動を操り、
水場へと連れて行く。
繰り返しじゃない。
外面は平静を装ってもくずれていく。
応急措置をほどこしたそばから。
あいた穴をそとから見えないように埋めるために
内側から内臓を千切って詰める。
いつか、外壁が崩れ落ちた時に、
もはや何も内側に残っていないことを知って、
誰かが驚くだろうか。
それとも、そんなことなんて、誰も見ていないかも知れない。
帰巣本能なのか。
危険になると、最初に戻りたくなる。
最初。一番最初に身につけた仮面。
真面目で真剣で、紳士で、まっすぐで、単純。
急に戻りたくなって演じたんじゃないの?
よくわからない。
あの後、結婚までは、それこそ、向こうにいたときまでも、
それで通せたじゃないか。
自分までだませたのかも知れない。
一緒になってからしばらくも自分をそのまま保てたじゃないか。
だからきっと、あれが本当なんじゃないのか。
そうだったらいいと、どっかで思ってないか。
なぜ、あっさりと、それで引き下がらなかった?
でも、きっと違うって、底で知ってないか。
知っている。ここが終着点じゃないと知っている。
もう昔の手で自分がだませないことも知っている。
ハリガネムシ。
カマキリに寄生して、狂ったように行動を操り、
水場へと連れて行く。
繰り返しじゃない。
2009年10月18日日曜日
2009年10月6日火曜日
Man in the Mirror
そう言えば、鏡なんだ。
そんなことはわかっているのに。
遅れているのは、こちらなんだ。
遅いと笑って、もっと遅いのはこっちの方なんだ。
周回遅れに追い抜かれたようで、更に遅れているのはどっちなんだ。
マグマを溜めているのはどちらもなんだ。
噴き出したらどうなるかわからないのはどちらもなんだ。
理性ぶった顔で前向きになんて言ってるのはどのつらなんだ。
だからどの顔をしてって思ったのはほんとなのに、また、新しい仮面が巣食いはじめる。
かつて恐れて封印し、もう、ひからびてしまったような結晶なんて、
それは9年前のものだったか。
12年も前のことがむしろ、結局、そこをめぐってるんじゃないか、って
恐怖?そんなんじゃない。でも
ただ、自分の残酷さに向き合うのが、結局、怖いんじゃないのか。
奔流になって噴出したら、何をなぎ倒してしまうのかわからない。
器用だった分、人生を塗り固めてこられた。
いつか、偽りだったはずの仮面が皮膚から剥がれなくなった。
本当の自分なんてない。本性なんて、食いつくして、壊しちゃう、
ただ、それだけなんだ、でも、表面は、紳士のつらをさげて、
嫌味でプライドの高そうな慇懃な面をつけて、でも、もう、
それこそ、そこが本当なんだ、薄っぺらで。
新しい地平があるように見えて、苦界しかないのかも知れない。
何だかわからない、だけど、
それなのに、だけど、
もっと進みたい
そんなことはわかっているのに。
遅れているのは、こちらなんだ。
遅いと笑って、もっと遅いのはこっちの方なんだ。
周回遅れに追い抜かれたようで、更に遅れているのはどっちなんだ。
マグマを溜めているのはどちらもなんだ。
噴き出したらどうなるかわからないのはどちらもなんだ。
理性ぶった顔で前向きになんて言ってるのはどのつらなんだ。
だからどの顔をしてって思ったのはほんとなのに、また、新しい仮面が巣食いはじめる。
かつて恐れて封印し、もう、ひからびてしまったような結晶なんて、
それは9年前のものだったか。
12年も前のことがむしろ、結局、そこをめぐってるんじゃないか、って
恐怖?そんなんじゃない。でも
ただ、自分の残酷さに向き合うのが、結局、怖いんじゃないのか。
奔流になって噴出したら、何をなぎ倒してしまうのかわからない。
器用だった分、人生を塗り固めてこられた。
いつか、偽りだったはずの仮面が皮膚から剥がれなくなった。
本当の自分なんてない。本性なんて、食いつくして、壊しちゃう、
ただ、それだけなんだ、でも、表面は、紳士のつらをさげて、
嫌味でプライドの高そうな慇懃な面をつけて、でも、もう、
それこそ、そこが本当なんだ、薄っぺらで。
新しい地平があるように見えて、苦界しかないのかも知れない。
何だかわからない、だけど、
それなのに、だけど、
もっと進みたい
2009年10月4日日曜日
2009年10月3日土曜日
2009年9月28日月曜日
2009年9月27日日曜日
incarnation
観念の操作に興味はない。実現させ、受肉化されることが重要なんだ。
相互理解について。
込み入って、そして、時の積み重ねを経た「状況」。
個別化され、それだけを写し取るように、受け取ったところでそれがつくりだす個人の心情をそのまま理解できはしない。そもそも条件が違う、と言われたときに、反論のしようもない。
状況ではなく、心情そのもの。全身のアンテナをセットする。
そして、感じる。
理解、はできないかも知れない、結局。
でも、感じている何かはある。
それを、伝えられる、受肉化できる言葉が欲しい。
届けられる、信じてもらえる、モノが欲しい。
相互理解について。
込み入って、そして、時の積み重ねを経た「状況」。
個別化され、それだけを写し取るように、受け取ったところでそれがつくりだす個人の心情をそのまま理解できはしない。そもそも条件が違う、と言われたときに、反論のしようもない。
状況ではなく、心情そのもの。全身のアンテナをセットする。
そして、感じる。
理解、はできないかも知れない、結局。
でも、感じている何かはある。
それを、伝えられる、受肉化できる言葉が欲しい。
届けられる、信じてもらえる、モノが欲しい。
汝の敵を愛せよ
佐藤優 「獄中記」
岩波現代文庫版から
マタイによる福音書5/43-44 について p367-368
「神学プロパーの勉強をした人たち以外に、『汝の敵を愛せ』という言葉ほど誤解されてきたイエスの言葉はない。まず、誰でも愛せということではなく、味方と敵をきちんと分けて、敵を愛せということである。
政治とは、味方と敵を分けるところから始まる。その意味では、北方領土交渉を行うときはロシア人は敵であるし、現在の闘争では、国策捜査である以上、検察はもとより裁判所も敵である。
『敵を愛する』ということは、白旗を掲げ敵に屈服する、あるいは敵におもねるということではない。
憎しみの論理は人の目を曇らせる。敵を憎んでいると、闘いの構造が見えなくなり、従って対応を誤るのである。こちら側が弱いときほど、正しい対応をするために、要するに自分のために敵を愛することは必要なのである。僕の国策捜査に対する認識は、そのような神学的確信に基づいている。」
佐藤はこの箇所に続いて、「このような理解は、神学的には、それほど稀な解釈ではない」として、ユルゲン・モルトマンの『イエス・キリストの道、メシア的次元におけるキリスト論』(212p)を引用する。
以下、その引用そのままを抜粋する。
--------------
敵を愛することは、報復するのではなく、創造する愛である。善をもって悪に報いる者は、もはや反撥ではなく、何か新しいものをこしらえるのである。敵を愛することは、敵意から本来的に解放されることから生ずる、あの尊厳性を前提とする。敵を愛することは、決して敵に屈服することではない。まして敵意を敵に与えることによって、敵意を増幅することを意味しない。もしそうなったら、敵を愛する主体は、もはやそこにないことになる。むしろ問題は、敵意の知性的な克服にほかならない。敵を愛する時、人はもはや『私は、どのようにして敵から身を守り、敵の攻撃をおどしてやめさせることができるか」とは問わない。むしろ、『私は、どのようにしたら敵から敵性を取り去ることができるか』と問う。敵を愛することによって、私たちは、敵を私たち自身の責任の中に引きこみ、そこにまで私たちの責任範囲を広げるのである。それゆえ、敵を愛することは、『心情倫理』とは全く別なものである。それこそ、真の意味の『責任倫理』にほかならない。
--------------
岩波現代文庫版から
マタイによる福音書5/43-44 について p367-368
「神学プロパーの勉強をした人たち以外に、『汝の敵を愛せ』という言葉ほど誤解されてきたイエスの言葉はない。まず、誰でも愛せということではなく、味方と敵をきちんと分けて、敵を愛せということである。
政治とは、味方と敵を分けるところから始まる。その意味では、北方領土交渉を行うときはロシア人は敵であるし、現在の闘争では、国策捜査である以上、検察はもとより裁判所も敵である。
『敵を愛する』ということは、白旗を掲げ敵に屈服する、あるいは敵におもねるということではない。
憎しみの論理は人の目を曇らせる。敵を憎んでいると、闘いの構造が見えなくなり、従って対応を誤るのである。こちら側が弱いときほど、正しい対応をするために、要するに自分のために敵を愛することは必要なのである。僕の国策捜査に対する認識は、そのような神学的確信に基づいている。」
佐藤はこの箇所に続いて、「このような理解は、神学的には、それほど稀な解釈ではない」として、ユルゲン・モルトマンの『イエス・キリストの道、メシア的次元におけるキリスト論』(212p)を引用する。
以下、その引用そのままを抜粋する。
--------------
敵を愛することは、報復するのではなく、創造する愛である。善をもって悪に報いる者は、もはや反撥ではなく、何か新しいものをこしらえるのである。敵を愛することは、敵意から本来的に解放されることから生ずる、あの尊厳性を前提とする。敵を愛することは、決して敵に屈服することではない。まして敵意を敵に与えることによって、敵意を増幅することを意味しない。もしそうなったら、敵を愛する主体は、もはやそこにないことになる。むしろ問題は、敵意の知性的な克服にほかならない。敵を愛する時、人はもはや『私は、どのようにして敵から身を守り、敵の攻撃をおどしてやめさせることができるか」とは問わない。むしろ、『私は、どのようにしたら敵から敵性を取り去ることができるか』と問う。敵を愛することによって、私たちは、敵を私たち自身の責任の中に引きこみ、そこにまで私たちの責任範囲を広げるのである。それゆえ、敵を愛することは、『心情倫理』とは全く別なものである。それこそ、真の意味の『責任倫理』にほかならない。
--------------
2009年9月13日日曜日
2009年8月25日火曜日
2009年7月24日金曜日
最近の本棚から
「戦争さえなければ戦争はわるくないと思う。少なくとも嘘はない。」
文芸文庫「戦場の博物誌」開高健 「兵士の報酬」 p/30
(「歩く影たち」で最初に読んだけど)
「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。」
「外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。 (中略) 以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧一九世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。」
日本文学の特徴について 「日本文学史序説」加藤周一 筑摩文庫版 34-35p
「外来思想の影響をうけない神道には理論がない。 (中略) その世界観の特徴をさしあたりようやくすれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)、互に他を排除しない。当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。」
同p/37
「このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。 (中略) その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。」
同p38
「憶良は、同時代の他の歌人が詠わなかった題材―それはまた一九世紀末までその後の歌人もほとんど詠わなかった題材でもある―を、詠った。第一に、子供または妻子への愛着。
(中略)
第二に、老年の悲惨。
(中略)
第三に、貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の苛酷さのそれに加わる光景。」
同108-109p
「外国文化の「挑戦」に応じて傑作を生んだ少数の知識人の文学は、憶良依頼日本文学の歴史を一貫して、一箇の系列をつくることになるだろう。その時代のなかで孤立した傑作の系列。」
同113p
ここにならば、宮沢賢治を位置づけられるのかも知れない。
「宋代の中国には、「三教一致」説がしきりに行われたが、「会昌の破仏」は、少なくとも、いくつかの異なる思想体系が原則として排他的であり得るということ、また思想の排他性は思想外的状況の考慮によって常に必ずしも克服されえないものだということを示していた。そういうことが中国側にあったまさにその同じ時代に、奈良時代以来国家権力と融合していた日本仏教のなかに、殊にその妥協性によって特徴的な日本天台宗が興り、あらゆる外来および土着の思想・信仰を、それ自身の体系のなかに包みこんでゆこうとしていたのである。大陸では思想と思想との死闘があり得、日本ではあり得なかった。大陸では権力と思想との徹底した対立があり得、日本ではあり得なかった。この重大な、決して些事ではない対照は、在唐九年(838-47)、その最後の数年を、迫害のなかで異国に彷った日本天台僧の日記に、実に集中的にあらわれている。」
同133p
文芸文庫「戦場の博物誌」開高健 「兵士の報酬」 p/30
(「歩く影たち」で最初に読んだけど)
「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。」
「外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。 (中略) 以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧一九世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。」
日本文学の特徴について 「日本文学史序説」加藤周一 筑摩文庫版 34-35p
「外来思想の影響をうけない神道には理論がない。 (中略) その世界観の特徴をさしあたりようやくすれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)、互に他を排除しない。当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。」
同p/37
「このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。 (中略) その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。」
同p38
「憶良は、同時代の他の歌人が詠わなかった題材―それはまた一九世紀末までその後の歌人もほとんど詠わなかった題材でもある―を、詠った。第一に、子供または妻子への愛着。
(中略)
第二に、老年の悲惨。
(中略)
第三に、貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の苛酷さのそれに加わる光景。」
同108-109p
「外国文化の「挑戦」に応じて傑作を生んだ少数の知識人の文学は、憶良依頼日本文学の歴史を一貫して、一箇の系列をつくることになるだろう。その時代のなかで孤立した傑作の系列。」
同113p
ここにならば、宮沢賢治を位置づけられるのかも知れない。
「宋代の中国には、「三教一致」説がしきりに行われたが、「会昌の破仏」は、少なくとも、いくつかの異なる思想体系が原則として排他的であり得るということ、また思想の排他性は思想外的状況の考慮によって常に必ずしも克服されえないものだということを示していた。そういうことが中国側にあったまさにその同じ時代に、奈良時代以来国家権力と融合していた日本仏教のなかに、殊にその妥協性によって特徴的な日本天台宗が興り、あらゆる外来および土着の思想・信仰を、それ自身の体系のなかに包みこんでゆこうとしていたのである。大陸では思想と思想との死闘があり得、日本ではあり得なかった。大陸では権力と思想との徹底した対立があり得、日本ではあり得なかった。この重大な、決して些事ではない対照は、在唐九年(838-47)、その最後の数年を、迫害のなかで異国に彷った日本天台僧の日記に、実に集中的にあらわれている。」
同133p
2009年7月20日月曜日
Indispensable
かつて、平行線をたどってきたものどうし。
同じ時間、空間を共有しながら、交差することなく、過ぎてきた時間。
やがて、交差することで、遡って、意味までが創生する。
交差して。
それぞれの線がそれぞれのたどってきた歴史をかかえ、
それを相応に認め合いながら、
いつしか、一方が、必要欠くべからざる存在のように思えること。
その先へ。
時間をともにし、何かをつむげるのか、薄氷を踏むようでいて。
線はきっと、直線なのにお互いがからみあって、つまり、
面をつくり、空間を拓く
同じ時間、空間を共有しながら、交差することなく、過ぎてきた時間。
やがて、交差することで、遡って、意味までが創生する。
交差して。
それぞれの線がそれぞれのたどってきた歴史をかかえ、
それを相応に認め合いながら、
いつしか、一方が、必要欠くべからざる存在のように思えること。
その先へ。
時間をともにし、何かをつむげるのか、薄氷を踏むようでいて。
線はきっと、直線なのにお互いがからみあって、つまり、
面をつくり、空間を拓く
2009年7月18日土曜日
交錯
立ち上がってくるのは、いつも同じシーン。あるいは、同じこと。
やり直せるならば、やり直したい、と思うことが眼前に現れ、それに対して、答えがあるようで、ない。
記憶をたどり、そして、そうすることで生き直し、ときに傷を深める。
思い出を、人生という小川の底の美しい小石、といったのは、湯川秀樹だったか。
それは、でも、美しい、というだけの小石であることなんて、あるんだろうか。
たどり、繰り返すことで、そして、ゆがめ、何とか、納得させようとする。
なにを捕まえようとしていたのだろう。
ことば。君は、あのとき、こう言った、だから僕はこうしたんだ。
ことばは変わらない、だけど、真実なんて、むしろ、変わるものなんだ。
そばにいたい、と言いながら、なにがしたいの?と問いつづけられた。
なにがしたかったの?、に、いまなお、こたえがあるだろうか。あるいは、何かをなぞっている今に対しても。一番と思うことをできないつらさがあなたにはわからない、と言われたこと。
掛け続けた電話。つながらなかった電話。そこにある、ある、確かな崩壊の予感が、確信に変わっていくそのときの感情を思い出す。裏返しての、投影像に、過去と現在が交錯する。
荒削りな岩のかけらを、滑らかにし、小石にするのは、流れ。小川というに、時に激しく流転に満ちて。
たぶん、答えは時間、ともにつむぐものとして、願わくば、とおり過ぎず、そして、つむぎ、積み重ねる。
やり直せるならば、やり直したい、と思うことが眼前に現れ、それに対して、答えがあるようで、ない。
記憶をたどり、そして、そうすることで生き直し、ときに傷を深める。
思い出を、人生という小川の底の美しい小石、といったのは、湯川秀樹だったか。
それは、でも、美しい、というだけの小石であることなんて、あるんだろうか。
たどり、繰り返すことで、そして、ゆがめ、何とか、納得させようとする。
なにを捕まえようとしていたのだろう。
ことば。君は、あのとき、こう言った、だから僕はこうしたんだ。
ことばは変わらない、だけど、真実なんて、むしろ、変わるものなんだ。
そばにいたい、と言いながら、なにがしたいの?と問いつづけられた。
なにがしたかったの?、に、いまなお、こたえがあるだろうか。あるいは、何かをなぞっている今に対しても。一番と思うことをできないつらさがあなたにはわからない、と言われたこと。
掛け続けた電話。つながらなかった電話。そこにある、ある、確かな崩壊の予感が、確信に変わっていくそのときの感情を思い出す。裏返しての、投影像に、過去と現在が交錯する。
荒削りな岩のかけらを、滑らかにし、小石にするのは、流れ。小川というに、時に激しく流転に満ちて。
たぶん、答えは時間、ともにつむぐものとして、願わくば、とおり過ぎず、そして、つむぎ、積み重ねる。
2009年7月3日金曜日
苛立ち
時々、とらえようのない苛立ちが襲ってくる。
こっちに来てから余計にそうだ。
ようやく、正体に気付いたような気がする。
吉行のエッセイを読みながら。
エッセイには直接関係ないのだけれど。
クオリティ。
最近、クオリティを、厳しく問われてない。
趣旨、とか、そんなん。違う。質。
敢えて、どうでもいいことをやってみて、その質。
イベント。最初から、アイディア勝負に出てしまう。
外形的な条件を規定して、その中でのことに終始してしまう。
そうじゃない。
作りもの。企画。普通の仕事。文章。
クオリティで勝負してない。
効果ばかり。
計算高くなった。
あの、連続イベントの頃は、スピードとクオリティで勝負してなかったか。
それを誰かに問われなかったか。
スピードがクオリティの言い訳にならないことを、もっと自覚してなかったか。
自分で自分に苛立っていた。そんなことにも気付かなかった。
このままじゃまずい。
こっちに来てから余計にそうだ。
ようやく、正体に気付いたような気がする。
吉行のエッセイを読みながら。
エッセイには直接関係ないのだけれど。
クオリティ。
最近、クオリティを、厳しく問われてない。
趣旨、とか、そんなん。違う。質。
敢えて、どうでもいいことをやってみて、その質。
イベント。最初から、アイディア勝負に出てしまう。
外形的な条件を規定して、その中でのことに終始してしまう。
そうじゃない。
作りもの。企画。普通の仕事。文章。
クオリティで勝負してない。
効果ばかり。
計算高くなった。
あの、連続イベントの頃は、スピードとクオリティで勝負してなかったか。
それを誰かに問われなかったか。
スピードがクオリティの言い訳にならないことを、もっと自覚してなかったか。
自分で自分に苛立っていた。そんなことにも気付かなかった。
このままじゃまずい。
2009年6月14日日曜日
献立
ちょっと特殊な想像力を使うような気がする。
技術と、材料と、会計と、と、総合的で、じゃあ、仕事に似ているか
という、必ずしもそうでもないような。
鯛の切り身が安かったから焼く
白身だからいらないっちゃぁ、いらないけど自分が好きだから、
大根を下ろす
味噌汁はその大根を使って、それだけだと難だから、菜ものと、
今日は地物が相応の値段だったホウレンソウと組み合わせる。
ほかに、ホウレンソウは、塩を軽く打ってから、ごま油でざっと
炒めて付け合わせにする。
残り物のかぼちゃの煮物を温める
水菜が残っていて、ちょっと多めだけれど使い切りたかったから
軽く塩ゆでして、半分に切ったプチトマト数個と、和風のサラダに。
夏の走りだから、オクラを買ってきた。塩で洗って下ゆでしたものを
小口にして、小さめの短冊のキュウリと合わせ、煎りごまを振って、
ポン酢で和えたものに鰹節をそえる。
まあ、こんなもの。
オクラは早めにやって、和えた時点で冷やしたかった。
今日の反省点。
技術と、材料と、会計と、と、総合的で、じゃあ、仕事に似ているか
という、必ずしもそうでもないような。
鯛の切り身が安かったから焼く
白身だからいらないっちゃぁ、いらないけど自分が好きだから、
大根を下ろす
味噌汁はその大根を使って、それだけだと難だから、菜ものと、
今日は地物が相応の値段だったホウレンソウと組み合わせる。
ほかに、ホウレンソウは、塩を軽く打ってから、ごま油でざっと
炒めて付け合わせにする。
残り物のかぼちゃの煮物を温める
水菜が残っていて、ちょっと多めだけれど使い切りたかったから
軽く塩ゆでして、半分に切ったプチトマト数個と、和風のサラダに。
夏の走りだから、オクラを買ってきた。塩で洗って下ゆでしたものを
小口にして、小さめの短冊のキュウリと合わせ、煎りごまを振って、
ポン酢で和えたものに鰹節をそえる。
まあ、こんなもの。
オクラは早めにやって、和えた時点で冷やしたかった。
今日の反省点。
2009年6月4日木曜日
使えなくなった、切り札に
風が僕らをつないでいた。「風の噂」という言葉が本当ならば。
思い込み、と笑われてもいい。もう、確かめる手段もないのだから。毎日同じ部屋に集った日々を共有しても、年々速度を速めて拡散して、もう、大学やらにいるのは、わずかになる。それでも、彼は、北の地にいることは聞いていた。北風は僕の耳に消息を届けた。反対向きは、そう、今となってはわからない。数年前、その大学を訪ねる機会を得たときに、風のもとを確かめようとしたけれど、そうか、奴の学部は、戊辰戦争の町か、また、今度だ、と連絡もしなかった。最近、関東に戻ってきたことも知っていた。風がつないでいたんだと思っていた。
18歳の夏の撮影。冬の試験。寒い日に広いキャンパスの片隅で出会って、それは僕を温めた。僕は入り、彼は1年待って、北の地に向かう。
いつか、来てもらおうと思っていた。ちゃんと調べて、とびきりの機会を作って。そのままに違いないあの笑顔は人を惹きつけることは間違いない。どうやって探したの?、と周りに訊かれて、僕は答える、20年前から知ってたから、と。そんな日がきっと来る、と、どこかで思っていた。あの教室にいた、50人弱。大学だの研究機関だのにいるのは、いつの間にか、僕ら2人になった。だからこそ、風が向こうにも届いている、と思っていた。思い立ちさえすれば、いつでも連絡できる。とびきりの機会まで、温存しておこう。あの笑顔は、切り札だから。
突然、突風が来る。
そして、その、とびきりの機会とやらは、決して訪れないことを知る。
もう、2度と風は吹かない。使えなかった切り札に、僕は別れを告げに行く。
思い込み、と笑われてもいい。もう、確かめる手段もないのだから。毎日同じ部屋に集った日々を共有しても、年々速度を速めて拡散して、もう、大学やらにいるのは、わずかになる。それでも、彼は、北の地にいることは聞いていた。北風は僕の耳に消息を届けた。反対向きは、そう、今となってはわからない。数年前、その大学を訪ねる機会を得たときに、風のもとを確かめようとしたけれど、そうか、奴の学部は、戊辰戦争の町か、また、今度だ、と連絡もしなかった。最近、関東に戻ってきたことも知っていた。風がつないでいたんだと思っていた。
18歳の夏の撮影。冬の試験。寒い日に広いキャンパスの片隅で出会って、それは僕を温めた。僕は入り、彼は1年待って、北の地に向かう。
いつか、来てもらおうと思っていた。ちゃんと調べて、とびきりの機会を作って。そのままに違いないあの笑顔は人を惹きつけることは間違いない。どうやって探したの?、と周りに訊かれて、僕は答える、20年前から知ってたから、と。そんな日がきっと来る、と、どこかで思っていた。あの教室にいた、50人弱。大学だの研究機関だのにいるのは、いつの間にか、僕ら2人になった。だからこそ、風が向こうにも届いている、と思っていた。思い立ちさえすれば、いつでも連絡できる。とびきりの機会まで、温存しておこう。あの笑顔は、切り札だから。
突然、突風が来る。
そして、その、とびきりの機会とやらは、決して訪れないことを知る。
もう、2度と風は吹かない。使えなかった切り札に、僕は別れを告げに行く。
2009年5月27日水曜日
キャリアを伝えることの不可能性
セミナー、という方法論。
テクニカルを伝える、というあり方。
あるいは、実例を示す。
25歳のころの自分に問いかける。
何があれば、跳べたか、と。
結局、開拓者には何が必要なんだろう。
テクニカルを伝える、というあり方。
あるいは、実例を示す。
25歳のころの自分に問いかける。
何があれば、跳べたか、と。
結局、開拓者には何が必要なんだろう。
2009年4月8日水曜日
2009年2月20日金曜日
Recession Watch
Natureに景気後退に関して連続的なCommentaryが掲載されている。
日本のことは以下。黒川清氏と角南篤氏の共著。
政策研究大学院大学の2人ってことか。
Nature 19 February 2009 (Vol. 457 pp935-1046)
Recession Watch: No time for nationalism
pp960 - 961
Atsushi Sunami and Kiyoshi Kurokawa
doi:10.1038/457960a
http://ml.emailalert.jp/c/adhtakcPtSg6ykad
日本のことは以下。黒川清氏と角南篤氏の共著。
政策研究大学院大学の2人ってことか。
Nature 19 February 2009 (Vol. 457 pp935-1046)
Recession Watch: No time for nationalism
pp960 - 961
Atsushi Sunami and Kiyoshi Kurokawa
doi:10.1038/457960a
http://ml.emailalert.jp/c/adhtakcPtSg6ykad
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